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私と卓球


故郷の中津川市で昭和 40 年 10 月、岐阜国体の卓球の試合が 始まった。大学 4 年生の時である。

当時、全日本卓球ベテランの部で同市在中の林八郎氏が連続優勝 していたことがこの片田舎での開催に結びついたのだ。

私は、中学から卓球を部活に選び、中津高校 3 年生の時は キャプテンを務めた。 当時は球拾いから始まり、先輩から素振りの型と左右の動き、そして「ツッツキ、ショート、 ラリー」を教えてもらいそれらの繰り返しの練習である。サーブは自分で研究した。 基礎体力を付けるため、長距離、神社の階段登り、うさぎ跳びに明け暮れた。 それでも成績はやっと地区予選を通過し県大会に出場出来る程度であった。

岐阜薬科大学に入学。 同大学の卓球部は東海学連でも強く、優秀な先輩がいた。その指導のお蔭で「ループドライブ」 を覚え「医歯薬大学の中での大会」では入賞、優勝することが出来た。

しかし、一般の大会では、東海学連でベスト16がやっとであり、この国体への出場は勿論無理 で観覧席。

試合場には自慢の弟がいた。 弟は岐阜県代表として団体入賞に貢献し、地元に錦を飾った。弟の優(まさる)は、前年の 39 年全国高等学校卓球選手権大会で、後の世界チャンピオンになった名電高校の長谷川に勝ち、 3 位となり「中国とのピンポン外交」のメンバーにも選ばれた。 41 年には、全日本卓球選手権大会のダブルスで優勝と、その後も活躍し、現在も 「ラージボール」の部で頑張っているようだ。

私は、入社 1 年目の社内大会での優勝を最後に、その後殆どラケットを握っていない。

年に 1 回、大学の卓球部の同窓会で遊ぶ程度。

ところで、私がこの大学いた当時、卓球部の女子は、又、凄いのである。

全日本学生卓球選手権大会で早稲田大学を破り、2 年連続入賞しているのだ。

女性に頭が上がらないのは、どうもこの時に染み付いたらしい。

「キャプテンは勝たなければならない」との思いが強く、オリンピックでの水谷選手の試合も 自分の試合の時と重なり、怖くて楽しく見ることが出来ない。

私にとって卓球は「責務」であったのだ。


3年前、神戸に住む、中学 1 年生の孫たちが遊びに来てくれた。星ヶ丘で夕食後、 ボーリング場に行った。

孫も部活が卓球である。台を見付け卓球をすることになった。

久しぶりにラケットを握り 孫とのラリーを続けた。

「じぃじぃ、うまいねぇ!」 卓球に打ち込んだ 10 年間の努力がこの一言で報われ、

にんまりと微笑んだ

 
 
 

1 commentaire


Invité
27 janv. 2023

良い新年を迎えられたことと思います。卓球は佐々木(旧姓綿谷)さんがコーラス部と掛け持ちで頑張っていらしたことを覚えていますが 強かったんですね。去年ご主人の佐々木さんが亡くなられて驚いています。どうぞ今年もお元気で 色んなお話をメールしてください。楽しみにしています。奥田英子

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